大きな期待のもとに華々しくデビューしたにも関わらず悲運の生涯をたどった姫路モノレール。その姫路モノレールと同じような生涯をたどったもうひとつの悲劇モノレール、それが横浜ドリームランド(神奈川県戸塚区)と国鉄大船駅(横浜市栄区)を結んだモノレール大船線(通称ドリームランドモノレールです。
 姫路モノレールの試験線が神奈川県川崎市の向ヶ丘遊園(正式には小田急向ヶ丘遊園駅〜向ヶ丘遊園地への連絡 1.1km)にあったように、ドリームランドモノレールの試験線もある遊園地にあった。試験線があった遊園地とは?2006年の8月31日に閉園がきまった奈良ドリームランドです。
 今回は、姫路モノレールとはすこし離れてしまいますが、同じ時を生き、そして消えてゆくもうひとつのモノレールを取り上げたいと思います。

ドリームランドモノレールの概要

開通まで
 1964年8月1日、日本ドリーム観光株式会社により、横浜市戸塚区に遊園地「横浜ドリームランド」が開園された。しかしドリームランドは駅から遠く不便だった為、国鉄大船駅からの有効な交通手段としてモノレールを設置すること決定。当初は開園と同時にモノレールも開業させようと計画していたが、用地取得と丘陵地を通るルート故の急勾配に悩まされ、開園から2年後の1966年5月になってようやく国鉄 大船駅⇒ドリームランド間が開業。将来的には長後駅(神奈川県藤沢市)まで路線を伸ばす計画もあった。
 ドリームランドモノレールが採用したのは、東芝が独自企画した『東芝跨座式』。東芝としてはドリームランド線で成功し、今後予想された全国各地のモノレール需要で主導権を握る事を狙っていた。しかし・・・

開通から一年後
 運行から1年後、軌道を支えるコンクリート等に亀裂が発見され、他にも車両重量が設計値より大幅に超過していたこと等安全性が問題となり、東京運輸支局から運行休止勧告が下され、開通から一年と少しの1967年9月23日限りで運行休止となった。
 起伏の激しい丘陵地の地形に合わせて軌道を通した為、設計当初の車両の出力では力不足で、出力向上の為モーターを大型化し車両重量が設計値より大幅に超過したこと、軌道の橋脚の許容重量にあまり余裕が無かったこと。この二つが原因であった。
 もし、用地買収に時間と資金をかけて、丘陵地ではなくゆるやかな地形に軌道を通してていたならば・・・ 
 
休止から14年
 休止後、責任の所在を巡ってドリーム交通と車両を設計した東芝との間で裁判が始まった。裁判期間中は運行の再開できず、ようやく裁判が終わったのは、休止から14年後の1981年。
 翌年の1982年に運行の再開に向うように見えた。しかし・・・
 14年の歳月は横浜ドリームランドを含む周辺環境が大きく様変わり、14年放置されていた設備の老朽化も激しく、再開を望む声もむなしく月日は流れた。
 その後いくつか運行再開事業計画が出されては立ち消えとなり、横浜ドリームランドが2002年2月17日に閉園されると、モノレールの再開計画も不採算必至と判断され、同年8月21日には廃止が発表された。
 開通から36年。実際に使われたのは一年と少し・・・
 2003年9月から撤去が始まり、現在ドリームランドモノレールをしのばせるものはほとんど消え失せてしまった。
 そして、その実験線がある奈良ドリームランドの閉園。東芝跨座式モノレールがこの世から完全に消えてしまう。
 なんと悲運なモノレールなのでしょうか。


 モノレールの実験路線は、メーカー側は、国への複雑な手続き等の回避、遊園地側もアトラクションが増えるといった双方にメリットがあり、遊園地などに遊園地の"遊具"として設置されることが多かった。      写真は駅施設のモデルとなった建物。
 『東芝跨座式』の実験路線であったモノレールはスペースライナーという名称の施設だった。
 撮影は、2005年10月末。すでに運行休止した後だった。
 ディズニーランドやUSJに押され、私が子供の頃、特別な場所であった遊園地は姿を消していく。とても残念なことです。
 壁の素材や木の窓枠やデザインに時の流れを感じます。
 こちらが車両。休止から何年経過しているのか分からないが。車体には雨でできた汚れが目立っていた。 こちらの車体は、実験線ができた時からの車両ではなく二代目らしいです。
 駅舎と車両を正面からみたところ。未来的な流線型車両がカッコいいです。子供の頃よく見た未来の鉄道が目の前にあるような気がしました。


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