休止から廃止へ・・・

 
 姫路市民の大きな期待を持って登場したモノレールであったが、博覧会が終わった後の営業は散々たるものだった。姫路市としては、手柄山来場者は年々増加すると見込んでいたが実際はそうではなかった。開業前の資料によると

「今後姫路市内は云うに及ばず播磨地域の住民にとって最適な憩の場所となり、わが国でも稀にみる一大観光文化施設が具現し、あまねく人々が一度は手柄山を訪れ、均斉のとれた美観と、その雄大さに心うばわれることでしょう。手柄山を訪れる人は年々増加しており、昭和39年度で約283万人、昭和40年度では推計300万人を見込まれます。」とある。この見解が非常に甘かった

 開通当初は年間126万人の乗客数を見込んでいたにもかかわらず、開通初年度の昭和41年度に40万3000人を運んだのがピークで、42年度33万4500人、43年度24万5700人と減り、その後は年間21万人から24万人の輸送実績であった。
 予想を大きく下回った事で開業の翌年の昭和42年8月には「姫路市モノレール対策審議会」が設置され 廃止すべきかどうか という議論が始まった。なんとか経営を立て直す為に職員数の大巾な削減、事業現況に適応したダイヤ改正、乗客誘致策等種々の経営努力を重ねたにもかかわらず、経営業態は一向に改善されずついに審議会は以下の理由を挙げ結論を下した。

1.手柄山中央公園そのものに観光地としての魅力がなく、今後大巾な乗客の増加は期待できない。
2.現行の運賃ですら高いという不評があることを考え値上げは不可能。
3.安全輸送が強く要求される公共交通事業である以上、現在以上に大きく合理化を行うことは困難。
4.必要以上に急勾配、急カーブをつけている路線の為、車輌、レール等の損傷が著しく、老朽化によ
  る維持、修繕費が今後ますます増大する。
5.世界で始めてという試作品である為部品の補充が容易でない。製造した日本ロッキード社は既に
  は解散し、部品メーカーに特別仕様品として発注するため、コストが高く、直ぐに間に合わない現状
  である上に、今後この種のモノレールの改良発展は現在のところ全く考えられない。
6.安全運行を保つためには近い将来、各施設(車両の主要部分、レール、保安設備、姫路駅舎等)
  の大巾な改善が必至である。

 以上のような問題点から「モノレール施設を公営企業として運営できる可能性は全くないものと考えられ、思い切ってこの事業を廃止することが望ましい」と判断した。
 しかし、起債の償還、撤去に要する経費の問題から休止という手段がとられ1974年4月11日休止となった。
 休止後の約五年は細々と保守点検は続けられていたが、1979年1月26日ついに廃止となり、13年足らずの短い生涯を終えたのであった。



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