モノレールの構想から開業まで


 昭和30年代、自動車の爆発的な増加よる道路渋滞と、国鉄山陽線で南北が分断され交通の流れが悪い事が、昭和50年度には100万広域行政都市建設を目指していた姫路市の大きな問題であった。
 それを一気に解消すべく姫路市は新たな交通手段を模索していた。路面電車やバスは交通の妨げとなり、地下鉄は建設工事費があまりにも割高、そんな時に候補として上がったのがモノレールであった。

モノレールの特長は
  (1)地下鉄などに比して建設費が割安であること。
  (2)大量輸送が可能であること。
  (3)運転が安全であること。
  (4)走行性能がよい。
  (5)振動及び騒音が少なく乗心地が非常によい。
  (6)全体的に優美で展望がすばらしい。
 
 モノレールこそ現在及び将来の都市交通機関として最も適した輸送手段と姫路市は判断し、南部海岸工業地帯と、中部商業地帯、北部農業住宅文教地にモノレールを結び、更には姫路を中心として瀬戸内海鳥取を結ぶ壮大な計画を打ち立てた。
 ところが計画を表面に出すと採算性や他の交通機関との競合が問題にされるため、表向きは昭和41年に姫路城修復を記念して行われる「姫路大博覧会」の会場である手柄山への"足"として建設された。モノレール推進派の石見市長としては「建設した」という既成事実を作り、モノレール慎重派を抑え込み、本命である第2期以降の工事に進みたかったと考えられる。
 博覧会の開催にあわせて1966年(昭和41)年4月の開業を目指していたが、建設中に台風や集中豪雨に見舞われ、予定より遅れ1966年(昭和41)年5月17日の開業となり、開業当時の運賃は姫路〜手柄山間が100円 、姫路〜大将軍間が30円で、姫路〜手柄山がバスで40円に比べ高い運賃だった。
 車両は、通常3両編成で運行され、一度の輸送で定員は約350人、満員で約670人、最高運転速度は約50km/hと言われている。当時の運転時間は、4月1日〜9月31日は朝の9時から18時まで、10月1日〜3月31日は9時から17時で、手柄山駅発毎時10、30、50分の20分間隔の運転を基本とするダイヤが組まれていた。
 所要時間は5分程度で単線の為ひとつの車両が行ったり来たりの往復運転をしていた。 姫路大博覧会は大成功で、その"足"としてのモノレールも2時間待ちになるほどの大盛況で、前途洋々の出発となったのであった。



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